若冲と華岳、時代も画風も異なる二人の日本画家ですが、若冲の展覧会が
現在京都市美術館で行われていりことから華岳の常設館である何必館と併せて
たまには日本画の世界にどっぷりと浸かって深まりゆく秋を過ごすのも一興
ではないでしょうか。

18世紀、江戸時代の中期に活躍した画家伊藤若冲は、正徳6年(1716年)、
京都の錦市場にある青物問屋の長男として生れました。4代目として父親を
手伝いながらも、絵を描くことに夢中だった若冲は、40歳の時に早々に“隠居”し、
3歳下の弟に家業を任せ、本格的に作画に打ち込みます。

緻密な描写で描く動植物は生命力に溢れていて、実物と見紛うばかりの美しさ
に人々は魅了されました。家業の青物問屋を継ぐことより、絵を描くことを選んだ
若冲でしたが、子供の頃から慣れ親しんだ市場の光景が影響しているのか、
若冲の作品には、野菜や魚も多く描かれています。

この時代の京都の画家たちには、江戸ではあまり見られなかった“自由性”があり、
狩野派、琳派などに代表される個性的な作品を描く画家が多かったのです。
とりわけ若冲は流派にとどまることなく、中国画を参考にし、写実的で装飾的な
花鳥画や、斬新なタッチの水墨画などでその才能を発揮し、異色の作品を数多く
残しています。

今回の京都市美術館での展覧会(12月4日まで)には『鵜のどじょう図』、
『波濤鯉魚図』、『雪中雄鶏図』、『象と鯨図屏風』、『百犬図』、更には
多色刷りの華麗な屏風画『樹花鳥獣図屏風』などが展示されています。
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一方の村上華岳はその代表作である『太子樹下禅那図』が祇園にある京都現代美術館
「何必館かひつかん」に収蔵されています。村上華岳、本名武田震一は1888年
(明治21年)大阪に生まれましたが家庭の事情により幼児期から両親と離れ
遠戚の家で育てられました。やがて養家である村上家の家督を継いで京都市立
美術工芸学校に進学して絵画制作の世界に進みます。このように両親の愛情を
ほとんど受けずに育ったことが後年の彼の仏画に影響を与えたかも知れません。
更に進んだ京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)の卒業制作となった
『早春』で1911年文展において褒状を受けました。そして1916年からは仏画の
制作を始めその初作品『阿弥陀之図』は第10回文展で特選を勝ち取ります。
その後、1920年の『裸婦図』では菩薩の聖性と、生身の女性の官能美と
いう相反する特性を融合させたような造形をつくりあげました。現在では
華岳の仏画は日本における20世紀の宗教絵画の最高峰とみなされています。
何必館は繁華な四条通りに面して立つビルの中にあるのですが、一歩中に
足を踏み入れると深い静寂に包まれる不思議な空間です。美しい光庭や
茶室もあり、慌ただしい旅の中で一服の清涼剤とも言えるような安らぎの
場所となることは間違いありません。